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本当に胃ろうを選択すべき?胃ろう行なうメリット・デメリット

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高齢化が進む日本。誰もが健康で長寿を迎えることを望みますが、現実には何らかの病気や認知症などによって日常生活の大半で介護が必要になったり、寝たきりで過ごさなければいけなくなったりする高齢者が増えていくことも事実です。

現実的に考えれば、自分が寝たきりや介護が必要な状態になったときのことや、自分自身の人生の終末期をどのように過ごすのか、あらかじめ考えておく必要があります。

その際、終末期を迎える多くの人にとって、「胃ろう」を選択するのかしないのか、はとても大きな問題になります。自分の親や家族、また自分自身のためにも胃ろうについて、考えておく必要があるのです。

誰もが考えておく必要がある胃ろうとは?

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病気の後遺症や末期の認知症、老衰などによって、口から物を食べられなくなった場合に、お腹に小さな穴を開けて胃に直接栄養を送ることを「胃ろう」といいます。

高齢になれば、たとえ介護を受けていても、口から食べ物を摂る力がなかったり、スムーズに嚥下(飲み込むこと)ができない場合には、最終的には胃ろうという栄養の摂りかたを選択せざるを得なくなるかもしれません。

介護する人が不足し介護難民が増加する!日本の高齢化のスピード

日本は急速に少子高齢化が進んでいます。総務省の統計によれば、65歳以上の高齢者が総人口に占める割合は2015年で26%、2025年にはおよそ30%、2060年には40%を超えると試算されています。

65歳以上を高齢者とするかどうかは別にしても、高齢者の人口は間違いなく増えていきます。高齢になるほど病気などに罹患する比率が高くなり、様々な病気や認知症などで介護なしでは生きていけない高齢者が増えることも間違いありません。

その一方で、生産人口が減り労働力が慢性的に不足するため、高齢者を抱える家族が介護にかける時間は少なくなると考えられます。

つまり、介護を必要とする高齢者が増える一方で、介護をする人が少なくなるという、介護する人とされる人の割合が極めてアンバランスな世の中がやってくるのです。

将来の自分の姿かもしれない!認知症の高齢者が増加する実態

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厚生労働省の統計によれば、2015年時点で認知症を発症している高齢者は345万人とされています。統計上は高齢者のうち10.2%ということになり、高齢者の10人に1人は認知症を患っていることになります。

しかし、統計上把握できている数字と実際の認知症患者の数は、必ずしも正確に一致しているとはいえないため、把握できていない認知症を発症している人の数は、軽度認知症の人も含めると、統計の2倍とも3倍ともいわれています。

高齢化が進むことは間違いありませんから、このまま高齢者人口が増えていけば、認知症の患者の数も確実に増え続けることになります。認知症を治療する新しい薬に期待することもできますが、まだまだ先のことだと考えるほうが賢明です。

「自分は絶対に認知症にはならない」ということは誰一人として断言できません。むしろ、「もしかすると自分も将来認知症を患うことになるかもしれない」と考えて準備することのほうが大切でしょう。

また、認知症は罹患する期間が長い病気の1つです。認知症を発症してから生命を全うするまでの期間はおよそ10年といわれており、認知症の症状は初期・中期・末期と歳を経るごとに進行していくのが一般的です。

認知症の中期から末期になると、自分の力で食べ物を摂ることができない状態になることが多いので、生きるためには何らかの人口的な方法で栄養を摂るしかなくなるのです。その選択肢の有力な1つが胃ろうなのです。

口から食べられなくなったときの栄養の摂りかたの選択肢

当たり前のことかもしれませんが、人間は口から食べたり飲んだりすることで、生きるために必要な栄養を摂りながら生命を維持しています。

仮に病気や認知症などの影響によって、口から栄養を摂ることができなくなった場合には、どのような方法で栄養を摂れば良いのか、という問題が起こります。人工的に栄養を摂る方法を人口栄養法といい、胃ろうもその1つです。

現在行なわれている人口栄養法には、大きく分けると次の3つの方法があります。

1.経静脈栄養法(点滴による方法)

腕や鎖骨の静脈に針を刺し点滴で栄養や水分を送る方法が経静脈栄養法です。経静脈栄養法は、比較的簡単に行なうことができますが、生命を維持するほどの栄養を十分に供給することができない、という問題があります。

また、患者が認知症の場合、点滴の針を自分で抜いてしまう場合も多く、管理が難しいことも難点です。

経静脈栄養法のメリット

  • 一般的な点滴による方法なので、比較的簡単に装着できるメリットがある。
  • 患者の状態が良ければ、点滴ごと移動することも可能。
経静脈栄養法のデメリット

  • 生命を維持するのに十分な栄養を送ることが難しい。
  • 胃や腸から栄養を吸収することができないので、胃腸の機能が衰弱する。
  • 認知症の患者の場合、自分で点滴を抜いてしまうなど管理が難しくなる。

経静脈栄養法のメリットとデメリットには上記のようなことがあげられます。

2.経管栄養法(鼻や口から管を使う方法)

経管栄養法とは鼻や口から管を通して栄養を直接胃に送る方法です。生命維持に必要な栄養や水分を十分に体内に送ることができます。

しかし、常に管を取り付けておくことが必要な場合もあり、患者にとっては苦痛や異物感を感じながら過ごさなければいけなくなります。また、食事の度に口や鼻から管を挿入する場合でも苦痛は減りますが、介護する人に煩わしさが生じます。

経管栄養法のメリット

  • 経静脈栄養法に比べ、生命を維持するために必要な栄養や水分などを十分に送ることができる。
  • 胃や腸を使い栄養を吸収できるので、患者からすれば、ある程度は自然な形で栄養を摂ることができる。
  • 不要になれば取り外せば良いだけなので、比較的短期間の人工栄養法に向いている。
経管栄養法のデメリット

  • 口や鼻にチューブを付けるので患者が苦痛や違和感を感じる。
  • 介護する人の手間がかかり煩雑な作業となる。
  • チューブの装着に関わるトラブルが起こる場合がある。
  • チューブから送った栄養などが逆流し、誤嚥を起こす場合もある。
  • 苦痛や手間を考えると、長期間の人口栄養法としては向いていない。

経管栄養法にもこのようなメリットとデメリットがあります。

3.経腸栄養法(胃ろうの造設による方法)

経腸栄養法は一般的な胃ろうのことで、お腹から胃に小さな穴(ろう孔)を造設して、流動食や栄養剤、水分など生命を維持するために必要なものを補給する方法です。

胃ろうはお腹の外側と胃をつなぐ蛇口のようなもので、一度胃ろうを造設してしまえば、患者の苦痛や不快感は少なくて済みます。また、介護する側も流動食のようなものを食事の時間ごとに胃ろうに取り付けるだけでよく、手間や介助時間も少なくて済みます。

経腸栄養法(胃ろう)のメリット

  • 一度胃ろうを造設してしまえば、食事の度の苦痛や不快感が少ない。
  • 生命を維持するために必要な栄養や水分を十分に体内に送ることができる。
  • 胃を通して栄養を送るので、比較的自然な形で栄養を摂ることができる。
  • 経静脈栄養法や経管栄養法のようなチューブトラブルがない。
  • 人口栄養法の中では最も介護の手間がかからない。
  • 比較的、長期間の人工栄養が必要な人に向いている。
  • 口から食べるよりも栄養が充足され、病気が改善する場合もある。
  • 不要になれば閉鎖することもできる。(但し実際に不要になることはほとんどない)
経腸栄養法(胃ろう)のデメリット

  • 誤嚥を起こす心配がほとんどなく、誤嚥性肺炎を起こすリスクを少なくできる。
  • 口から食べられなくなるので、生きているといえるのか?という倫理的な問題が起こる。
  • 最も手間がかからないため、本当は胃ろうが必要のない人にも安易に造説されてしまうこともある。

胃ろうにもこうしたメリットやデメリットがあり、いざというとき、どの人口栄養法を選択すれば良いのか、家族や介助人はその判断を悩むことが多いのです。

本当に胃ろうが必要なのか?胃ろうの問題点

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口から物を食べられない場合の人工栄養法について取り上げてきましたが、こうした理由から総合的に考えると、長期的に人工栄養による生命維持が必要な場合には、胃ろうという選択をすることが合理的だと考えられることも納得がいくかもしれません。

しかし、本当は胃ろうをする必要がない場合でも、単に介護の煩わしさが少なくなるということだけで安易に胃ろうが造設されるケースが非常に多くなっている、という現実もあります。

そのため、本当に胃ろうが必要な状態なのか、患者が自分の口から物を食べることの意義や重要性というものを軽視してはいないか、という終末期医療で生じる「生きることとは何か?」という命の尊厳について考えることも必要になってくるのです。

医療・介護の現実は?生きる権利を奪う延命医療の矛盾

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先ほども述べましたが、高齢化の影響によって日本の労働力人口は一層深刻なものになっていきます。一方、高齢化のスピードは他の先進国に比べても極めて早いため、病院や介護施設においては最も深刻な労働力不足に陥ることは間違いありません。

介護を受ける人の増加に対して、介護する人が不足する事態が深刻になれば、少ない人数でいかに効率的に患者に対応するか、ということが最優先課題になることも当然です。

そして、病気や障害の症状が軽度で、多少なりとも自力で食べることができる状態の患者であったとしても、できるだけ手間のかからない「胃ろう」による処置を奨めることによって、介護する側の負担を減らそうとすることがやむを得なくなるのです。

介護の手助けを借りれば口から食べることができる患者であっても、介護する側の効率が優先され、半ば強制的に必要のない胃ろうが造られ、食事の時間になれば流動食が定期的に胃に流し込まれる状態は、本当の意味での延命治療といえるのでしょうか?

本来、人を生かすために行なうべき医療や介護が、人から生きることを奪うことになる、という矛盾が生じてしまうのです。

食べることは生きること!食べることは人間の尊厳をもたらす

WFPの統計によれば、世界には開発途上国を中心に食べることすら満足にできない飢餓状態の人が8億人以上もいるとされています。

飢餓状態ということは満足に食べるどころか、最低限度の栄養補給すらできない状態ということでもあります。生きていながら食べられないということは、壮絶なことだと思います。想像を絶する苦しみでしょう。

そうした人たちのことを考えれば、私たちのように当たり前に食べられることは幸せなことであるとともに、食べることがいかに大切なことであるかということをもっと尊重しなければいけなくなります。

食べることとは単に栄養を吸収するということではなく、食べることそのものが生きている価値であり、生きる意味や人間の尊厳を与えてくれるものだと考えるべきではないでしょうか?

食べることは生きることに他なりません。生きるためには食べなければいけないのは当たり前のことですが、食べられないことは死んでいることより酷いことなのかもしれません。

このように考えれば、胃ろうによって栄養を流し込まれ生命を維持することは、本当の意味で、尊厳を持って生きているといえるのか?という重大な疑問を一層真剣に考えなければいけなくなるはずです。

食べることと排泄することは人間の最大の尊厳

もし将来、自分が胃ろうを受けなければならない状態になったとしたら胃ろうを受け入れるか、と聞くと、ほとんどの人は、そんなことをしてまで生きたくはない、と答えます。

それは自分が介護が必要な状態になり、自分の家族や子供に迷惑をかけたくないということもあるでしょうが、自分の人間としての尊厳を守りたいという願望もあるからです。

人間が最後まで自分の尊厳を保つために自分自身で行ないたいと考えることは、自分の口で食べることと自分で排泄すること、だといわれています。自分の体が動かなくなり、どうにもならないときでも、この2つだけは自分で行なうという強い意思を持つのです。

食べることや排泄することを自分でできなくなり、他人に頼らなければならなくなることは、もはや自分が人間らしいとはいえなくなった、と考えるのも無理はありません。

食べさせたら死ぬ!?胃ろうを受け入れなけばいけない理由

食べることは人間としての尊厳を守る最後の砦になるわけですが、自分の口で食べることができなくなり、自分の尊厳を失ってまでも、胃ろうを受け入れざるを得ないのはなぜでしょうか?

胃ろうの造説が必要になるのは、建前としては、誤嚥がスムーズにいかなくなり、誤嚥性肺炎などを起こしたり、栄養不良を起こしたりするという理由があります。

しかし、本音をいえば、介護に関わる人手や費用をできるだけ少なくし、介護を受ける人にかける手間と時間をできるだけ少なく効率的に行なうためかもしれません。

医師や介護従事者に胃ろうをしなければ、誤嚥や栄養不良が起こり死んでしまう、といわれれば、たとえ本人が胃ろうを行なってまでも生きたくないという意思があっても、胃ろうを選択せざるを得なくなるのです。

もし、ここで胃ろうを断れば、親や兄弟を見殺しにするのかと誤解を受けかねませんし、誤嚥の心配をしながら食べさせることにも、大きな不安がつきまといます。どちらの選択をすればよいのか、家族にとっても、どれが適切な判断か分からなくなるのです。

そのため、専門家である医師や介護士が胃ろうをしなければ死んでしまいます、といわれれば、家族は専門家の意見に同意せざるを得なくなるのです。

こうして、慢性的な人手不足の問題を抱え効率を重視したい医療従事者や介護従事者側の意見に半ば強制的に賛同する形で、最終的に胃ろうという選択がなされるのです。

胃ろうを選択する上で最も大きな問題は、食べることが人間の尊厳を守る最後の砦であるにもかかわらず、胃ろうが行なわれる本人の意思が全く反映されていない、ということです。

尊厳死を考えることも必要な時代がやってくる

2015年10月、アメリカ・カリフォルニア州では一定の条件の下で尊厳死を認める法案が可決されました。病気や障害の末期状態などで人口的な延命措置をしなければ生きていけない状態になったとき、その延命措置を自ら断る権利を認めたのです。

本当に尊厳死を認めて良いのか?という問題は今でも大きな議論になっています。場合によっては、医師が殺人罪に問われたり、尊厳死に同意した家族が殺人幇助罪に問われたりするケースもあります。

しかし一方で、人間としての尊厳を守って生きることのほうが尊い、という意見も多数あります。

尊厳死の是非については、そう簡単に結論がでるものではありませんが、自分の最期をどう迎えるか、ということは、誰もが考えなければいけない大きな問題です。

60歳を過ぎたら自分の最期を迎える準備をしておく

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高齢者の間で「終活」という言葉が広まっています。終活とは、自分の最期をどのように迎えるかということを、元気なうちに考えておくことです。

自分の最期をどこでどのように送りたいのか、ということは自分がどう生きたいか、ということと同じくらい深い意味があります。

死は誰にとっても受け入れなければならない宿命ですが、裏を返せば、どのように生きるのか、を考えることでもあります。自分の生き方を全うする上でも、少なくとも60歳を過ぎたら、自分の最期をどのように送るのか、考えておく必要があるのです。

1.自分の最期を自分で決めるACPの考え方

日本では、ほとんど馴染みがありませんが、欧米にはACPという考え方が普及しています。ACPとは”Advance Care Planning”の略で、自分の終末期をどのように迎えるのか、をあらかじめ決めておくという意味です。

胃ろうをはじめ、延命措置についての細かな指示について、そのときに意思表示ができなくなっていても、あらかじめ家族や医療関係者などと十分に話し合った上で、自分が将来、万一のときにどのように対応してもらいたいのか、を決めておくということです。

こういうことを考えるべきだというと、日本人は、「そんな縁起でもないことを・・」という人がほとんどなのですが、ACPのプロセスを踏まずしては、胃ろうの選択1つすら、本人だけでなく家族にとっても満足な選択ができなくなるのです。

2.信頼できる医師や介護職員など医療従事者と認識を共有する

自分の終末期をどのように過ごすか、幸せな最期をどのように迎えるか、ということを考えたとき、自分の健康状態や命の考え方をしっかりと理解してくれる医師や介護士との信頼関係を築いておくことが不可欠です。

残念ながら、多くの医師や介護士は効率と安全を重視せざるを得ないので、下手に食べさせて誤嚥を起こされ面倒なことになるよりも、胃ろうを奨めることのほうが無難な選択なのです。

もし、自分と自分の最期を看取る医師との間に長年に渡る信頼関係があり、日頃から自分の最期はこのように送りたいと告げておいたなら、その真意を知る医師はその人が願う最期の送りかたにできるだけ沿うような治療法を選択してくれるでしょう。

しかし、現実にはそのような幸運な関係があることのほうが少ないでしょうが、それでも、全く見ず知らずの医療従事者にその場限りの対応を選択されるよりは、できるだけ互いを知った間柄の医師や介護士に託すほうが安心なことは確かです。

思い通りに死ねるということは、自分一人だけの力ではかなわないということです。生前から自分の最期のことを考え、医師や介護士、家族や周りの人との信頼関係を築いておくことが、自分の最期を尊厳をもって迎えるためには必要なのです。

自分の最期をどこで送りたいか?

今の日本では8割以上の人が病院で亡くなっています。病気や障害の治療のために長期に渡り入院生活を送り、その末に病院で亡くなっていくのが現実です。これは、欧米の先進国と比べても極めて高い比率です。

本来、自分がどこでどのようにして最期のときを迎えるかは、自分自身にも選択権があるはずです。アンケートによる調査によれば、ほとんどの人は病院のベッドではなく、できれば自分の家の畳の上で死にたいと思っています。

しかし、急な容態の変化に対応できないことを理由に医師は病院にいることを奨めますし、本人も家族や周りの人に迷惑をかけたくないこともあり、やむを得ず病院のベッドの上にいるしかありません。

本当は自分の家で子供や孫に囲まれて最期のときを迎えたいというのが本音だとしたら、そのように取り計らってもらうことは不可能ではありません。在宅での訪問看護を依頼したり家庭医に巡回訪問してもらったりすることも可能で、欧米では当たり前です。

日本でも、せめて自分の最期くらいは、どこでどのように迎えたいか、という自分の願いが叶う社会の仕組みを作ることも必要なのかもしれません。

3.リビング・ウィル(Living Will)による宣言書を残す

欧米ではACPの考え方を発展させた「リビング・ウィル」という方法が一般化しつつあります。これは自分の最期をどのように迎えたいのか、を自分で決定し意思表示したものを宣言書として文書化しておく方法です。

なぜ、リビング・ウィルの文書化が必要なのかというと、ACPでは本人と家族が医療関係者を含めて、自分の終末期をどう送るかについて話し合いを行なって決めておくわけですが、いざとなると家族の気持ちにブレが起こることが多いからです。

人間の気持ちというものは常に揺れ動くものですから、例えば3年前に考えていたことが、今日考えることとは違っていることもありますし、5年後には、やはり別の考えのほうが良いと思うかもしれません。

まして親族など身内の生死に関しては、選択を間違えるとニ度と取り返しがつかなくなることにもなります。ここが非常に難しいところで、本当に最善の選択は何かを決めるということは、本人にも家族にも困難を伴うことなのです。

ですが、そうした難しさを抱えながらも、様々なことを話し合い考えた上で、文書として残しておくことは、何もしないでいるよりも、よほど有意義な結果をもたらすことは間違いありません。

リビングウィルの一例あげると、次のような内容をあらかじめ文書化し宣言しておきます。

  • 私の傷病が現代の医学では不治の状態で、既に死期が迫っていると診断された場合には、ただ単に死期を延ばすだけの延命治療は行なわないで下さい。
  • 私の死期が迫り、痛みや苦しみが激しい場合には、モルヒネなど麻薬を使い、十分な緩和ケアを行なって下さい。
  • 植物状態に陥った場合には、生命維持装置による延命は行なわないで下さい。

などという、死期が迫っている場合の対応などについて、リビング・ウィルの宣言書を作成し、あらかじめ署名して家族や主治医に、意識があるうちに、自分の終末医療をどうしてほしいのか、をはっきりと明言しておくのです。

胃ろうの選択についても、リビング・ウィルの宣言書と同じように、自分の最期をどのように送りたいのか、あるいは、介護についてもどのように行なってほしいのか、をあらかじめ書面で記し意思表示をしておくことが必要です。

胃ろうに関しては、次のような意思表示が考えられます。

  • 胃ろうを受け入れる場合・・家族に一切の手間をかけないよう、早期の胃ろう造設を望む。
  • 限定的に胃ろうを受け入れる場合・・介護が可能な限りは、できるだけ食べられるものは自分の口で食べることを望む。あるいは、胃ろうによる栄養補給のほかに、○○だけは自分の口から食べたい。
  • 胃ろうを拒否する場合・・胃ろうによる人口栄養法では、尊厳のある生きかたとはいえないので、一切の胃ろうの造設を断る。誤嚥等の責任は他に負わせない。

欧米は個人の意思が尊重される社会なので、自分のことは自分で選択するのが当たり前です。日本でも胃ろうについて、こうした細かな点を文書化し自分の意思を表明しておくことが大切です。

胃ろうの選択に関しては、これが正解だというものがありません。胃ろうをしてまで生きている必要はないと考えることもできますし、1分1秒でも長く生きていてほしいという家族もいます。

日本人には死生観がないといわれます。胃ろうの問題をきっかけにして、自分の最期をどのように送りたいのか、考える機会になれば良いと思います。

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